天照す       前編



中々戻らない近藤を迎えに土方が沖田家を訪れたのは昼を少し回った頃だった。

戸口で声をかけても誰も出て来ないのを不審に思った土方は、勝手知ったる家
という事もあって、そのまま庭へと回ってみた。
そしてその場の光景にしばし唖然として凍りついた後、周囲に響き渡る怒声を上げた。

「こっ、この馬鹿野郎っ!! 泣く子も黙る新選組一番隊組長ともあろう者がっ、
 ガキを背負って襁褓(むつき=オシメ)なんぞの洗濯をしてるんじゃねぇぇぇっ!!」

怒りの余り涙目になる土方の様子は無理もない。
三つ数えずに人を斬る、とさえ言われる新選組筆頭の鬼神が、赤子をおんぶ紐で
背中にくくりつけ、尻はしょりをしたままゴシゴシと一心に襁褓の洗濯をしているのだ。


「あっ、土方さん。いらっしゃい」

土方の怒りもどこ吹く風の気配の総司は、手に持った白い布地を放す事無く
のほほんと笑いかける。

「いらっしゃいじゃねぇっ! なんでお前がそんな事をしてやがるんだよっ。
 神谷はどうしたっ?」

「セイはですねぇ、近藤先生に頼まれて一緒におタマちゃんへ送る着物を
 見立てに出かけてます」

そう言えば自分は近藤を迎えに来たのだった、と今更ながら土方は思い出す。

「昨日まで雨続きだったじゃないですか? だから祐太のオシメが
 中々乾かずにセイが困ってたんですよね。やっと今日は晴れたので、
 朝から気合を入れていたんですけど・・・」

ポリポリと濡れた手のままで頬をかく仕草さえ土方には苛立たしい。

「近藤先生のお願いですしね。セイには出かけてもらって、私がこうして
 洗濯を買って出たんですよ〜」

晴れ晴れと笑いながら言う事かと情けない心地すらしてくる。


つくづく井戸のある家を選んだ自分は正しかったと土方は思う。

この男の事だ。
共同の井戸を使うような長屋にでも住まわせていたなら、間違い無く隣近所の
町家の女房どもに混じって平然と襁褓を洗っていた事だろう。
そういうヤツだ。
情けない事に・・・。

そんな笑い者になるような事をさせてたまるか、と土方は拳を握る。

この男には名を聞いただけで浪士が震え上がるような存在で居て貰わねば困るのだ。
間違っても嫁馬鹿で親馬鹿なこんな有様を外に知られてはならない。

一通りの武士としての矜持は持っているはずなのに、どうして嫁と息子の事になると、
こうまで愚かになってしまうのか、土方は総司の頭をかち割って覗いてみたいとさえ思う。




「とにかくっ、ガキを貸せ!」

近藤達が戻るまでは腰を据えるつもりになった土方が総司の背から
祐太を取り上げようとする。
背中の温もりが心地良かったのか、ぐっすり寝入った赤子は土方の腕に移されても
起きる気配が無い。

縁側に腰を下ろし胡坐をかいて赤子を抱くその姿に、総司が笑う。

「すっかりその姿も板につきましたよね」

元々土方は子供が嫌いではない。
子供の頃から年中出入りしていた姉の嫁ぎ先には、姉の産んだ幼い子供が
幾人もいたし、もちろん実家にも兄夫婦の間に子供がいた。
それなりに昔は赤子の子守もしたものだし、幼い甥姪の相手もしていた。

けれど二度目の奉公から戻り、家業の行商を手伝う傍ら剣術の稽古を
本格的に始めた頃から、子供と接する事はぱたりと無くなった。
いつか武士になるのだから、いつまでも子供の相手などしていられるかと
自分の中で何かが変わったのだろう。

試衛館で食客として過ごしていた時にしても、近くには近藤の娘がいたけれど
ほとんど抱いた覚えもない。
だからいつの間にか赤子の抱き方など忘れていた。


総司に子供が出来たとて、関わるつもりなど微塵も無かったのだ、初めは。
たとえ近藤が自分の孫のようだと何かと理由をつけては赤子の顔を見に行こうと、
原田や永倉が子を生んだ女は一段と艶っぽいと嬉々として通っていこうと、
総司がデレデレといかに自分と神谷の子が可愛いかを耳が腐るかと思うほど
幸せそうに垂れ流そうと。
近づく気など全く無かったのだ、本当に。

それが・・・。

あれはまだ産み月近い神谷の身の安全を危惧した近藤を初めとする幹部と
多くの隊士達の意向で、神谷が屯所の離れで暮らしていた時。
多少の騒ぎはあったがどうにかこうにか無事に身二つとなり、
父親に似た赤子の誕生を皆が喜び寿いだ。
けれどその喜びも長くは続かなかった。

その頃の事だ。









「どうです?」

布団に横たわるセイの枕辺で総司が不安げに松本法眼を見つめる。

「・・・あんまり良いとは言えねぇな。恐らく赤子が腹にいた時にあれこれ悩んだ事が
 原因だろう。とにかく暫くはゆっくり休ませて滋養のある物を食わせるこった」

「大丈夫ですよ。こんなの少し動けばすぐにいつものように元気になります」

松本と総司に視線を向けながらセイが微笑んだ。
その顔色は血の気が薄く、とても本人の言葉など信用できない。

「馬鹿な事を言うんじゃねえぞ。産後の肥立ちが悪くて命を落とす女子が
 どれだけいるか。お前が知らねぇはずはねぇだろうがっ!」

松本の雷にセイが首をすくめたが、それ以上に過剰な反応を示したのは夫の方だった。

「・・・・・・駄目ですからね」

ぼそりと落ちた言葉は擦れて力が無い。
見上げたセイの前に血の気の引いた男の顔がある。

「元気にならなければ駄目なんです。それまでは布団から出ることは禁じます。
 せっかく産まれたややを母のいない子にする訳にはいかない。いいですね」

産後の肥立ちが悪い・・・この言葉に総司の胸を不安が占めたのだろう。
今にもセイを失ってしまうような気がして体が震えそうだ。

「松本法眼。他に気をつけるべき事など色々伺いたいですし、近藤先生も
 結果を気にしておいででしたから、続きは局長室で」

どうにか心の均衡を保ってそう言うと、松本を伴って局長室を訪れた。




セイの前で語ったと同じ事を繰り返した松本の言葉に近藤は勿論の事、
同席した土方も表情を厳しくする。

「子を産んで三日も経つっていうのにあの顔色の悪さと、ひどい眩暈は
 妙だと思っていたんだが・・・」

日野にいる姉の出産を知っている土方も、妻の出産を経験している近藤も
セイの様子に首を傾げていたのだ。
赤子に乳を与えている最中に意識を失った事も一度や二度ではなく、
厠に立とうとして眩暈から廊下に倒れこんだ事もあった。
特にひどいのは食欲の無さで、無理に食べようとしても吐いてしまう。
今では粥を一口二口、どうにか口にする程度だという。
このままでは体が弱る一方だと松本の診療を依頼したのだが。

「恐らく今までの疲労が一気に体に影響を与えているんだろうがな。
 こればかりはセイ本人の治癒力に頼るしか術が無ぇ。出来得る限り安静に
 穏やかに休ませてやるこった。それと・・・どうにかして飯を食わせろ。
 食えなくなったら人間は終いだぜ」

最も信頼の置ける名医の言葉に男達が頷いた。



松本が去った後、男達が頭をつき合わせて今後の相談を始めた。

「セイに関しては私がしっかり監視して、ふらふら歩き回ったりしないようにしますけど
 ・・・問題は・・・」

「祐太か・・・」

近藤の言葉に総司が首を縦に振る。

「あの神谷の知る辺の里乃って女に預けられねぇのか?」

土方の言葉に総司が困ったように手を振った。

「里乃さんも緊張が切れたのか、ひどい風邪で臥せっているそうです。
 先ほど法眼が言ってました」

う〜ん、と男達が唸る。

「私の空き時間はセイの所に置いて面倒を見ます。セイもその方が安心できると
 思いますからね。ただ巡察や稽古の時は誰かに見ていて貰わないと・・・」

確かに総司がいる時はセイの元に赤子を置いておく方が良いだろう。
けれど総司不在の時、弱っているセイ一人で赤子の面倒を見るのは負担が大きすぎる。
かといって元は仲間とはいえ隊の男が、人妻である女子の寝所に四六時中
居座り続けるのは憚られる。
何よりそれではセイの心が休まらないだろう。

う〜〜〜ん・・・。
再び男達が唸った瞬間、ガラリと障子が開いた。

「だったら俺が面倒を見るよ!」

「いえっ、藤堂先生のお手を煩わせずともっ! 沖田先生の子ですから、
 私達一番隊の隊士達が交代で見ます!」

「そうです! 組長の子は我が子も同然! 我々が!」

「何を言ってるのさ。総司が隊務についてるって事は、一番隊も一緒に
 不在になってるって事でしょ? 面倒を見られるはずがないよ」

「では俺が見よう」

「斎藤は赤子の世話なんてした事あるの?」

「・・・・・・・・・」

「そういう平助は経験があるのか?」

「・・・・・・永倉さん、黙っててよ・・・」

わいわいと廊下で繰り広げられる口論に鋭い叱責が割り込んだ。


「てめぇらっ! 盗み聞きなんてするんじゃねぇと何度言ったら判りやがるっ!」

びくりと体を震わせた男達だったが、その視線は土方ではなく総司に向けられていた。
赤子の面倒を見る者を決定するのが誰なのか、それを理解しての期待に満ちた視線だ。

「・・・・・・土方さん、私は副長室でお願いしたいんですけど・・・」

日野で子の扱いに慣れているだろう土方だ。
その上副長室は隊内では比較的静穏で、人の出入りもそれほど多くは無い。
皆の好意は嬉しいが、出来る事ならむさ苦しい隊士部屋に、産まれたばかりの
赤子を置くのは控えたい。
そんな理由から総司が口にした願いは案の定、一言の下に却下された。

「ふざけるなっ! ガキなんぞ置いて仕事が出来るかっ!」

しかも次善の策さえ綺麗に叩き潰す。

「ああ、それと近藤さん、あんたの部屋も駄目だからな。ガキを抱えた局長なんざ、
 浪士に舐められるだけだ。隊の頭としての自覚を忘れないでくれよっ!」

「はぁ・・・そうでしょうねぇ・・・」

「なぁ、トシよ・・・」

総司の溜息も近藤の乞うような声音も“断固拒否”と口ほどにも物を言う
土方の視線に散らされた。

「・・・となれば・・・。やっぱり経験者、でしょうかねぇ・・・」

不安を滲ませた総司の視線の先にいた原田がニンマリと笑みを浮かべた。






「ったくよぉ・・・」

屯所のはずれの一室に、ぶつぶつと不満げな男の呟きが落ちる。

「コイツの世話を請け合えば、神谷の所に好きに出入りできると思ったのによぉ」

原田がすやすやと眠る赤子の頬を突いた。

セイの元へ行ったからと言って何もよからぬ事をしようと思っていた訳ではないが、
この男所帯の中でむさい男達の顔を見ているよりは子を産んだ事で一段と
艶めかしくなった女子の姿を目にしていたいと思うのは、健全な男なら
当然の事ではないだろうか。
けれどそんな原田の言い分が総司を始めとする仲間達に受け入れられるはずもなく、
総司不在の間は祐太と共にこの部屋に押し込められる事となった。
その間に与えるべき乳代わりの重湯や襁褓の代えは全て用意されている。


「・・・のんきに眠ってるぜ・・・いい気なもんだ」

空腹などで泣く以外は昏々と眠り続けるこの赤子は、ほとんど手間がかからない。
部屋に数冊持ち込んだ春画本にも飽きた原田がすっくと立ち上がった。

「少しだけ大人しくしててくれよ。すぐに戻ってくるからよ」

元々一つ所にじっとしているなどできない男だ。
祐太が眠っているのを確認して、バタバタと部屋を飛び出していく。
その時を嬉々として待っていた黒い影が、大きな背中を見送っていた。






「ひっ、土方さんっ!」

乱暴に開けられた障子を振り返った土方の目の前に、情けない顔をした
原田が立っている。

「なんだ、左之」

「ガキが・・・いねぇ・・・」

「あ?」

一番隊が巡察に出ているこの場合、原田の示す“ガキ”というのが
総司の息子である事は確かだ。
土方の口元がピクリと引き攣る。

「少しだけ厠に行って、ついでに賄所で飯を食って、戻ったらどこにも・・・」

「・・・少しってのは、どの程度だ」

原田の語る“少しだけ”など信用できないと土方が問う。

「四半刻・・・いや、半時・・・」

鋭い視線に射抜かれて大きな身体が小さく縮み、言葉を改める。

「生まれたてのガキが一人で出歩けるはずがねぇんだ。
 誰かが連れ去ったって事じゃねぇかよっ!」

苛立たしげに吐き捨てて土方が立ち上がった。
情けなく眉尻を垂れさせた原田も、目元を厳しく引き締めた土方も、
脳裏に浮かんでいるのは同じものだろう。

米神に青筋を立ててニッコリ笑いながら真っ黒な瘴気を全身から噴き出す
一番隊組長と、真っ青な顔で布団に倒れこむセイの姿だ。
総司の怒りも遠慮したいが、ただでさえ弱っているセイに余計な心痛を与えなどして
これ以上容態が悪化した日には大変な騒ぎになるだろう。
今でさえどこから聞きつけたのか、会津公や一橋公から見舞いとして高麗人参など、
滋養に良いとする品々が届けられているのだ。
隊内では幹部である組長とは言え、たかだか新選組という小集団の幹部だ。
その妻を何やら身内の如き扱いをする殿様達の考えなど自分達には
計り知れないが、それでもこんな事でセイにもしもの事があれば
どれほど厄介な事態になるか考えたくも無い。

たらり、と二人の背中に冷たい汗が伝い落ちる。

「探したのかっ!」

「探したっ、探したよっ! 斎藤に頼んで神谷の所もそれとなく見てきて貰った!
 だが居やがらねぇっ!」

セイの病間に入室を許されているのは夫である総司と近藤土方、
そして井上と斎藤だけだ。
他の人間はセイの具合が今少し好転するまではと、出入りを禁じられている。
だからこそ原田にしても斎藤の表情に出さない無言の怒りに肩を小さく竦めながらも、
事情を説明して祐太の捜索に手を借りたのだろう。
少なくとも屯所から出てはいないと原田が言う。
赤子を抱いた者が出て行こうとしたなら門衛が止める筈だ。
けれどそんな不審な者の出入りはなかったと、確認した門衛はキッパリと断言していた。

「どうしよう・・・土方さん・・・」

途方に暮れた原田の問いに土方が怒鳴り返す。

「どうしようも何もねぇっ! 屋根の上だろうが縁の下だろうが、くまなく探せっ!」



――― うっぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!

土方の叫びが聞こえたような間合いで屯所の一角から泣き声が響いた。
その瞬間、男達が走り出す。
赤子の泣き声、それこそがその所在を明確に教えてくれる。


「祐太っ!!!!!!!」

その部屋の障子を開けたまま、固まったように動かずにいる斎藤を押しのけて
土方が部屋に飛び込んだ。
そして一足先に辿り着いていた斎藤が凍りついていた理由を目の当たりにする。

「っっっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!」

幹部棟の中にあるその部屋は参謀である伊東の部屋だ。
その中に祐太を抱えた伊東が座っている。
大きく肌蹴た胸に赤子の顔を近づけながら。


「なっ、なっ、なっ、何をっ! 何をしてるんだっ、あんたはっ!!」

どうにか言葉を搾り出した土方が指を差す。

「いや、お腹が空いたようなので、乳をね・・・」

にっこりと微笑みながら伊東が土方を見上げる。

「ち、乳って・・・アンタは男だろうがっ!」

「それはそうだが、まぁ頑張ればどうにか・・・」

「なるわけが無ぇだろうっ!!」

――― ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!!

顔を真っ赤にして祐太が泣く。
それを腕の中であやしながら伊東が批難めいた視線を投げた。

「おやおや・・・土方君、そんなに怒鳴ってはこの子が怯えるだろう?」

(怯えているのはアンタのせいだっ!)

土方だけでなく、斎藤原田も内心で叫ぶ。

「と、とにかく、無理なものは無理なのですから、祐太を返して貰いましょう」

何度か大きく呼吸を繰り返した土方が、必死に感情を抑えて腕を伸ばした。

「嫌だよ」

ふいっと伊東が背を向ける。

「この子は清三郎の子だ。いずれは母に似た美しい童子となるだろうからね。
 今から私がしっかりと慈しんで、遠からず私の愛の虜に・・・」

――― ふぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!

ふふふふ・・・。
屯所中に響き渡る赤子の泣き声の中、小さな含み笑いが確かに男達の耳に聞こえ、
土方の全身に鳥肌が立った。

「いい加減にしやがれっ! てめえなんぞが触れてこいつにまで脳の虫が湧いたら
 どうしてくれるっ!」

鬼の形相で伊東の手から祐太を奪い取った土方が叫ぶ。

「おや・・・・・・。だが、この子は一人ぼっちで部屋にいたのだよ?
 誰も世話をする人のいない赤子だ。可哀想ではないかい?」

「てめぇに任せるぐらいなら、俺が面倒を見てやるっ!
 二度とこいつに近づくんじゃねぇぞっ!!」

これこそ売り言葉に買い言葉だと土方が気づいたのは、怒り治まらぬままに
赤子を抱えて副長室に戻ってきてからの事だった。




                                        後編